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〜 3つの理念 〜
日本は富んだ国になりました。
でも本当の意味の豊かさを実感できる国なのか、夢や希望に満ちた国なのか、今考えさせられています。多分今まで見過ごされてきた"人のしあわせ"が改めて見直されている、そんな気がしています。
いくら物が豊かになったって、他の大切な"何か"が犠牲にされ、抑圧されたままだったとしたら、私たちは幸せにはなれないんですね。当然のことです。
もちろん物が大事じゃない訳ではありません。基本的なもの(衣食住)が満たされることは、人間の幸せにとっても、とても大切な要素だと思います。でも、やっぱりそれだけじゃない。
ひとの幸せってほぼ100%"主観的"なものだと思います。誰かかがあなたの幸せをこうだと決めつけるようなものではありません。だから、大切なことはあなたが幸せと思える生き方を自由に選べる広い選択の幅、そしてお互いがそれを認め、尊重し合える懐の深い価値観、この二つが満たされた社会にして行く必要があると思うのです。
そしてその選択には自己責任が伴うってことも、合わせてみんなが了承しなければいけないと思うんです。
いろんな要素をバランス良く整えて幸せに生きるために、いろんな選択肢から自分の好みや感じ方を大切にして、自分らしく生きていくことが実現しやすい社会。
私はこれから社会のあり方を考えるとき、全ての価値判断の軸に、経済成長や豊かさではなく、抽象的ではありますが、"ひとの幸せ"を増すのか、減らすのか、このことを軸に考えていきたいと思っています。
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1.個人の自由と自立(心地よい自己決定と自己責任の世の中へ)
寄らば大樹の影?そこには大樹は絶対に倒れないという暗黙の前提がないでしょうか。
赤信号みんなで渡れば怖くない? それは絶対に安全に渡り切れることが前提になっていないでしょうか。
大樹は絶対に倒れないの? みんなで道を渡っていればその横断は絶対に安全なの?
もうそんな神話は通用しなくなりました。それはみんなが感じていることだと思います。
これまで程順調に経済が成長し、その恩恵にみんなが等しく浴すことができた時代は過去のものとなりつつあります。
これから自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の心で感じていく、そして自分で決めて覚束ないながらも自分の足で歩いていかなければならに時代になって来ました。
これは厳しいこと? ある意味そうだと思います。
でも、自分で決めることができる、自分の責任で自分が歩きたい道を歩くことができる。実はこれほど心地よいことはないのだと思います。必ず自分にあった生き方、自分で決める爽快さ、その醍醐味と生きる実感を取り戻すチャンスだと思います。
政府は過保護な後見者のように手取り足取り細部までルールを決めてきた規制から、自由なひとや企業を解き放つ必要があると思います。もちろん人の命や安全、財産を守るために必要な最低限のルールは、これは厳格に守り、ルール違反に対しては厳しく対処する必要があります。
でもそのルールされ守られれば、自由な生き方、自由な経済活動が人や企業に認められなければなりません。
そんな息苦しさのない、風通しのいい世の中は、自立した個人を尊重し、信頼するところから始まるのだと思います。
2.思いやりと安心(十分なセーフティネットで優しい世の中へ)
自立や自己責任を基本としても、やっぱり人間はみんなひとりで生きている訳ではありません。
同時に社会にはどうしても他者の手助けを必要とする人もいます。
今自分の足で歩くことができても、いつ、どんな理由で他者の手助けを必要とする事態に陥るか分からないのも現実です。
だから十分なセーフティネットで安全と安心を確保することは、弱い立場にある人たちのためにも、そして社会全体の安心にとってとても大切なことです。十分なクッションを敷きつめていない競技場では人は存分にプレーできません。
すべての生き物は競争環境の中で一生懸命生きています。それは人間だって同じだと思います。
でも、人間には"自助"だけじゃなくて、"互助"、"共助"、"公助"を実現していく知恵があります。これを十分に活かし、安全で安心して、存分に飛び跳ねることのできる社会にしていく必要があると思います。
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あなたはこの国が、日本が好きですか? 私は好きです。いや、正確に、正直に言うと、好きになりたい。好きでいたい。
好きと堂々と言っていたい。そんな感じでしょうか。
だって、ここで生まれて、ここで育ったんですから。なぜでしょう。私たちは私たちの国を愛しているって大声で言うのをはばかられる、国家や国益について議論することにとても臆病、とても過敏に反応してしまう。かわいそうな国、日本。
長年、国や国家について、関心のない装いがフツウでカッコ良く、国について多少でも議論しようとすれば、過激なナショナリスト(国粋主義者)というレッテルを張られてしまう。そんな極端で歪んだ色分けが、まっとうな議論を長年封じ込めてしまってはいなかったでしょうか。
多分この国に生きる人が、素直にこの国を愛せるかどうかは、自分のふるさとや先祖、その他自分がこの世に存在することとなった万(よろず)縁(ゆかり)を愛せるか、そして結局、自分自身の存在を受け入れ、愛し、慈しんでやれるかどうか、そんなところと根深く関わっているような気がしています。
悲しい太平洋戦争の経験を経て、日本は対外的に尊敬されることもなく、経済が大きくなっても、成り金風情にしか思われて来ませんでした。
日本に生きる人たちはこの国に生きる国民であることの誇り、外の世界からの認知と尊敬、そんなものに表面上無関心を装いながらも、それを得ることに内心とても渇望してきた。そんな状況が長く続いたのだと思います。
人間だれしも、トラウマを抱えない人はいません。自信と不安は入り交じるもの、確信と疑問は入り交じるもの。
でも大事なことはそのトラウマに苦しくても真正面から向き合って格闘していくこと、それなくしては本当の治癒はありません。
自分の国の主張を大切にしていくことは決して恥ずかしいことではありません。
他人との協調、他国との協調はとても大事なことですが、その前に、自分はどうなのか、自分の心の深層をしっかり探索して、その声に真摯に耳を傾けることが、まず必要だと思います。
健全な自己主張を出発点にして、他者との協調に向けて動きだす、そうした自然で正当なことが今の日本には、国全体でも、そしてひょっとしたら私たちひとり一人にも不足しているのかも知れません。
他者との協調を無視した自己主張は確かに危険。でも健全な自己主張まで否定した協調主義は、単なる自己抑圧。
他者との関係が大事だからこそ、自分の主張を大事にする。自分を本当の意味で大事にできるからこそ、他者を大事にすることができる。国も個人もそんなことを考えることが今の日本には必要な気がします。
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